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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ『落日』第3章・15  義昭の”切り札”発動! 目前に迫る大一番 ~信長包囲網・ラウンド4~

こんばんは。

先週の冒頭で、3月31日(土)の掲載分が最終回となる見通しを発表した「落日 ~室町幕府、終焉への道~」

今日を含めてあと4回、最終回の”あとがき”を除けばあと3回で完結となり、いよいよクライマックスです。

果たして、普段小説も読まなければテレビドラマも見ない、”脚本力ゼロ”のブログ主がどこまで臨場感のあるシーンを描けるのか・・・?

努力はしますが、期待はしないでください(早々に自己弁護)


茶番はこのくらいにして、本編いきますか。

前回の内容は・・・ コチラのリンクから見てもらうと早いのですが

「クリックすら面倒」という方のために書いておきますと、『1571年、信長が延暦寺を滅ぼした』の一文に集約できるかと。

詳しい経緯を知りたい方はぜひリンクをクリックして頂いて(露骨な宣伝)、そこから今回のお話につながります。


信長軍の猛攻によって”この世の地獄”と化し、老若男女問わず命を奪われたという比叡山延暦寺。

それでも、命からがら脱出に成功したわずかな僧や住民たちは、助けを求めて各国へと散っていきました。

日本の仏教界における一大拠点であった延暦寺を焼き討ちする”非道”を働いた、信長に対抗できる存在を求めて。

そうして”白羽の矢”が立ったのが、今回の記事の主役。 歴史好きならずとも御存知(のはず)、あのお方です。


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【ロケ地・川中島古戦場史跡公園(長野県長野市)】

勇ましい鎧兜の姿でお出でなすったのは、武田信玄(たけだしんげん)その人であります。

まぁね、普段からこのブログを読んで下さっている方に対して、今さら詳しく説明する事もないのですが。

一応、今回の記事で彼が起こす”ある行動”に関わる(と思われる)ポイントをかいつまんで、書いてみることにしましょう。


信玄が生まれたのは、現在の山梨県である甲斐(かい)の国。

信玄に限らず、日本史上で有名な戦国大名は『身分や家柄に頼らず、自らの力だけで領地を拡大した』と思われがちな面はありますが

甲斐を治めた武田家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が有名な由緒ある武士の一門・源氏(げんじ)に起源を持ち

日本が戦国時代に突入する以前から、室町幕府によって「甲斐守護(しゅご)」の職を与えられていた『まぎれもない名門』なんですね。

とはいっても、戦国時代に入る頃には甲斐の国内でも大小の争いが絶えず、それをまとめ上げたのは信玄(とその父・信虎)の功績になるのですが。


父・信虎との間でいろいろあった末、どうにか武田家の当主となった信玄は、国内の農業や産業、土木事業などに力を注ぐ一方

甲斐国内の武士たちを巧みにまとめ上げ、精強な軍勢を組織。 隣国・信濃(長野県)方面にその勢力を伸ばします。

その過程で、”宿命のライバル”越後(新潟県)の上杉謙信(けんしん)と、川中島で5度に渡って戦う(にらみ合い含む)ことになったり。

そうかと思えば、同盟を結んでいたはずの相模(神奈川県)の雄・北条氏康(うじやす)と領土を巡って争っていたり。

さらに、駿河(静岡県)の今川家が衰退した隙をついて成長した新興勢力・三河(愛知県)の徳川家康とも小競り合いを繰り返し。

はっきり言ってしまえば『息つく暇もない』ほどに、信玄の後半生は”周辺諸国との戦い”の連続だったというわけで。


そんな中、あまり知られてはいない事実ですが、信長包囲網が始まった頃までは、信玄と信長の関係は”良好”であったのです。

というのも『これ以上敵を増やしては、いくら兵士がいても足りない』と、信玄も信長も思っていたようで。

織田家と武田家の間では信長の息子に信玄の娘が嫁ぎ、信玄の息子に信長の養女が嫁ぐという”婚姻外交”が成立。

おまけに、信長は事あるごとに信玄に贈り物をし、信玄も信長の心づかいに感謝していた、とも伝わっています。

信玄が信濃を、信長が美濃(岐阜県)を奪取し、領地が隣接するようになってからも、両者の間に緊張が走ることはありませんでした。


しかし、ここで時間軸は一気にすっ飛んで、問題の『比叡山焼き討ち』から間もない頃。

『織田信長が比叡山を焼き討ちし、罪のない人々まで手にかけた』という噂は、信玄の耳にも届いていました。

自らも仏教を熱心に信仰し(自身が出家して本名の『晴信(はるのぶ)』から改名した)、領内のお寺も手厚く保護していた信玄は

信長が行った仕打ちに対し「これは人間の所業ではない、信長は悪魔(※)か!?」と、怒りに打ち震えたと言われています。

(※)『悪魔』という表現は仏教ではなくキリスト教由来らしいのですが・・・ ここでは細かい話は抜きで。


時を同じくして、信長の独断専行に手を焼く室町幕府将軍・足利義昭からも(信長の目を盗んで)便りが届きます。

「将軍の名において命ずる。 一刻も早く”信長包囲網”に参戦し、幕府にあだなす信長を討て」

誇り高き源氏の末裔として、(同じく源氏の)足利将軍家の危機を放ってはおけない。 信玄の腹は決まりました。

(もちろんこの辺りの描写はブログ主の想像を大いに含みます、異論はあろうかと思いますがここはお付き合いください)


そうと決まれば、周辺諸国との争いで兵力を消耗するわけにはいきませんので、信玄は戦略を練ります。

上杉謙信に対しては、越後の隣国・越中(富山県)で謙信に抵抗する諸勢力を支援し、信濃へ攻め込めないようにして。

北条家については、信玄を敵視していた氏康が1571年に亡くなった直後、その息子の氏政(うじまさ)と和議を結び。

残った三河の徳川家康は信長の同盟者であるから、上洛の際にキツイ一撃を見舞ってやればよいだろう・・・と。


こうして舞台が整った1572年10月、武田信玄はおよそ3万の兵(甲斐・信濃のほぼ全兵力とも)を率いて遠征を開始します。

信長の反撃を見越して美濃方面にも別動隊を送る一方、信玄の本隊は太平洋沿いに西へ向かい、家康が待つ遠江・浜松城へ。

果たして信玄は、悲願の上洛を果たすことはできるのか!? それとも、信長が底力を見せるのか!?

・・・あ、すっかり影が薄くなってしまっているけど、義昭は信長に一矢報いることはできるのか? も忘れないでネ。


次回、ついに事実上の最終話!? 『そして明けない夜は無い(仮)』に、ご期待ください。

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