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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】シリーズ「落日」第3章・16(結) そして、明けない夜は無い ~信長包囲網・決着編~

こんばんは。

毎度おなじみ、当ブログ土曜日の名物コーナー「落日 ~室町幕府、終焉への道~」でございます。

思えば昨年6月から年をまたぎ、足掛け9か月間にわたって続いてきたこの連載も、いよいよ佳境。

ついに今夜、応仁(・文明)の乱からおよそ1世紀、脈々と(ダラダラと?)つづられてきた室町幕府の歴史に、一つの区切りが訪れます。

その時、武田信玄は? 織田信長は?? そして我らが(?)足利義昭は???  その瞬間を、お見逃しなく。


さて。

前回の記事でお伝えした通り、信長との関係が悪化の一途をたどる室町幕府15代将軍・足利義昭

当時の東日本で最強クラスの戦国大名家に成長していた、甲斐(山梨県)を本拠とする武田家当主・武田信玄に宛てて

『幕府の威厳を取り戻すため、どうか信長に一泡吹かせてやってくれ』という趣旨の便りを送り、信玄もこれを請けて上洛を目指すことになりました。

しかし、そんな義昭も最初は『信長殿の力がなければ、私は将軍になれなかった!』と、信長に絶対の信頼を置いていたはずでした。


どうしてこうなった!?


義昭(幕府)と信長、両者の関係がここまで悪化した要因はいろいろと考えられるのですが

有力なのが信長が自身の理想とする『天下布武』を達成する上で、幕府や将軍の存在が邪魔になったから、という見方。

将軍(上洛当時は候補)の義昭を擁立して上洛し、表向きは『幕府の威信と日本の秩序を取り戻す!』としていた信長ですが

同時に『従来の幕府に依存しない、新しい日本を俺が作らなければ!』と思っていたフシもあり、次第に幕府や義昭と距離を置くように。


そして、幕府と義昭に対する”事実上の絶縁状”となったのが『異見17箇条』という文書です。

武田信玄の挙兵とほぼ同時期、1572年10月に提出されたというこの文書で信長は、かいつまんで言うと

『義昭殿は将軍としての責務を果たさず、保身と蓄財ばかりに精を出し、京の住民までが「ひどい将軍様だ」と嘆いている』と、義昭をさんざんにこき下ろしています。

ちょっと乱暴な言い方ですが『俺が足利家を滅ぼそうと思えば、いつでも滅ぼせるんだぞ』という、信長流の”宣戦布告”だったのかもしれません。

(一説には、これと同じ内容の文書が諸国の大名や有力者にも送られたという。 幕府を支持する勢力をけん制するため?)


ここまでコケにされては、義昭でなくても腹が立たない方がおかしいというものか。

ついに堪忍袋の緒が切れた義昭は、信玄や朝倉義景・浅井長政らとの連絡を一段と密にし、信長勢力を”圧殺”する行動に出ます。

その一番手となったのは、やはり義昭の”奥の手”であり、周辺諸国からも”甲斐の虎”と恐れられた勇将・信玄でした。

甲斐を発った武田軍の主力部隊は、信長と同盟関係にあった徳川家康が本陣を置く遠江(静岡県)は浜松城に接近します。

このとき、信玄自ら率いる武田軍およそ3万に対し、徳川軍の兵は1万余り(徳川家の兵が8千と、信長からの援軍が3千)。

この兵力差で野戦を挑んでも勝ち目が無いと”籠城”を決めた家康に対し、信玄は浜松城に見向きもせず西へ進路をとります。


ところが。

『背後を衝けば勝てるかも!?』と欲が出たのか、それとも『この家康をナメてるのか!?』というプライドか。

ここぞとばかりに『全軍追撃』を命令した家康でしたが、実はここまで全て織り込み済みなのが信玄の恐ろしいところ。 お前信玄の何知ってんねん

浜松城近郊・三方ヶ原(みかたがはら)で家康が目にしたのは、準備万端に戦闘体勢を整えた武田軍の”本気の姿”・・・

この後は・・・言わずとも分かりますよね。 かくして家康は人生最大の”惨敗”を味わい、命からがら浜松城へと逃げ帰ったのでした。


さてさて、『徳川軍、武田軍に完敗』の知らせを受けた信長、いよいよもって危機感を抱きます。

3年前、姉川の戦いでの勝利に大きく貢献した徳川軍の勇猛ぶりは、信長も大いに認めていました。

それが信玄の”本気”の前には全く通用せず、武田軍はほぼ無傷のまま織田家の本拠地・岐阜、その先の京へ向けて進んでいる。

それだけならまだしも、越前の朝倉義景もついに重い腰を上げ、自ら軍勢を率いて織田領を狙っている。

(朝倉軍の動きを警戒して、信長は家康に3千しか援軍を送れなかったとも)

ついでに言うなら、信長とは仲が良かったはずの松永久秀までが裏切って”包囲網”側に加わっており、これにも兵を割かないといけない。

まさに”四面楚歌”な状態の信長、言うなればあの”桶狭間の合戦”直前の頃以来の窮地に置かれていました。

「信長よ、将軍である私を怒らせるとどうなるか、よーく分かっただろう・・・?」 義昭の勝ち誇った顔が、浮かんでくるようです。


しかしながら。

天は、信長を見放してはいなかったようです。



まず、北から信長の領地を狙っていた朝倉軍ですが、大将である義景自身が

「雪が降って寒いし、兵も疲れてるから、そろそろ引き上げよう」と言い出し、織田軍と戦うことなく撤退していったのです。

実はこの時の義景、義昭や信玄から「武田軍が上洛するまで、信長の注意を引き付けておいて!」と頼まれて出兵しただけに過ぎず(異説もある)

もとより戦より文化や芸術が好きだったという義景のこと、『戦なんてやめて、早く自分の城に帰りたい』という欲求が勝ってしまったのかもしれません。

それはそれで、戦国武将としての”器量”や”覚悟”が疑われそうですが・・・ (この後信玄から「何考えてんだテメェ!!」とブチ切れた文言の手紙が届いたらしい)

ともあれ、信長にとっては”不戦勝”のような形で、北に対する守りを緩めることができました。


一方、最大の脅威である武田軍は、相変わらずの強さを保ったまま徳川家の三河(愛知県東部)へと侵攻。

このままだと信長の出身地である尾張(愛知県西部)も戦火に見舞われるのは時間の問題か・・・と思われたのですが。

1月、2月と過ぎて3月になっても、武田軍が尾張へと攻め込んでくる様子はありません。

そして4月になると、事態は急変。  戦に敗れたわけでもないのに、武田軍が三河から撤退を始めたというのです。

その理由は・・・そう。 歴史好きの方にはもはや言わずもがなですが、総大将の信玄が亡くなったのでした。 享年53。

『儂(わし)の死は3年隠し、遺体は壺に入れて諏訪湖に葬れ』とか『何としても上洛し、瀬田に武田の旗を立てよ』とか

伝説めいた”遺言”の数々が後世に残るほどの存在ですから、これを失った武田軍の士気は一気に崩壊。

これも信長にとっては”不戦勝”と言うことができましょうか。 こうして、最大の脅威も去っていったのでした。


こうなると、今度は義昭が青ざめる番です。 ”切り札”を失ったことで、信長との立場は一気に逆転します。

「さぁ~て、今までさんざん苦しめてくれたなぁ、将軍さんよぉ?」と信長が言ったかどうかは分かりませんが(おい)

朝倉軍も武田軍も去った今となっては、自前の兵力をほとんど持たない足利将軍家はほぼ”丸腰”の状態。

それでも「腐っても天下の将軍だぞ!? やれるもんならやってみろや!?」と精一杯の虚勢(?)を張り、”籠城”した義昭でしたが

戦力の差は歴然、7万(!)もの織田軍に囲まれては手も足も出ず。 ついに義昭は白旗を振り、『武家の棟梁』たる足利将軍家は織田家に降伏したのです。


時に1573年7月。 後世の歴史上で『室町幕府滅亡』とされる瞬間でした。


・・・『後世の』と前置きしたのは理由があって、室町幕府は確かにここで”ゲームオーバー”になりましたが

実はこの当時、まだ”コンティニュー”できるかもしれない状況にあったからです。 今までの記事を読んでる方なら何となくは・・・ねぇ?

そして、この連載も今回が”エンディング”ではなく、次回へ”コンティニュー”となります。

ブログ主は、これ以上何を書こうというのか・・・? 次の土曜日をお楽しみに。

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