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【戦国時代】シリーズ「落日」終章 義昭アフター ~歴史には残らなかった後半生~

こんばんは。

およそ9か月にわたってお送りしてきた大型連載企画「落日 ~室町幕府、終焉への道~」

今回の記事で、ついに終章(エピローグ)を迎えることになりました。

織田信長の軍勢に敗れて降伏し、京を追放されてしまった室町幕府最後の将軍・足利義昭

教科書やドラマでは決して語られない”その後”のお話です。


まず、誤解のないように最初に言っておきますと

京を追放された時点では、まだ義昭は『室町幕府15代将軍』の肩書きを失ったわけではありませんでした。

というのも、過去にも一度京を追い出された後に権力の座に返り咲いた例(10代将軍・義材⇒義稙)があったため、

当時の政治的にも世間的にも、『将軍の追放』が『幕府の滅亡』を意味するとは考えられていなかったのです。

また、「逆らう者は皆殺し」でお馴染み(?)の信長も、義輝の暗殺で非難を浴びた三好家の二の舞を避けるためか

”義昭の幼い息子を人質に取る”だけで、義昭自身の命は助けるという措置をとったのも、義昭にとっては幸運でした。

その一方で、信長は義昭を追放した直後、圧倒的な軍事力をもって越前の朝倉氏・近江の浅井氏を相次いで滅ぼし

およそ3年にわたって義昭が画策した”信長包囲網”は、ほぼ無力化されるに至りました。


この状況を見た義昭は『信長の領地に留まるのは危険だ』と察して、まだ信長の手が伸びていない地域へと動きます。

最初は河内(大阪府南東部)の三好義継(長慶の跡継ぎ)の城に入りましたが、ここも信長の侵攻が近いと知ると

次は紀伊(和歌山県)の畠山氏(室町幕府”三管領”の一つ)を頼り、さらに遠くへ逃げようとして助けを求めたのが

かつて日本有数の守護大名だった大内氏を打ち倒し、中国地方の支配者となった毛利元就の孫・毛利輝元(てるもと※)でした。

※ここまで読んでいただいた方にはお分かりかと思いますが、輝元の”輝”の字は足利義輝からの頂き物です。


輝元は、祖父・元就の遺言ともいわれる『毛利は天下を争ってはならない』の教えを念頭に置いて

「将軍を手元に置いていたら、天下の争いに巻き込まれるのでは・・・?」と考え、義昭の頼みを断ろうとしましたが

『ここがダメなら、もう行き倒れるしかない』とまで義昭に哀願されては断りきれず、

毛利家の領地であった備後国(広島県東部)は『鞆の浦(とものうら)』の地に屋敷を与えて迎え入れたのでした。


すると、たちまち不思議なことが起こります。

「義昭は備後にいる」との噂を聞きつけた幕府の家臣やその支持者などが鞆の浦に集まってきたのです。

実はこの鞆の浦、義昭の遠い先祖である足利尊氏(たかうじ)が、戦に敗れて京を追われた時期に滞在し

その後室町幕府を興したという、足利家にとって”縁起の良い”場所でありました。

要するに「義昭様も尊氏様のように再起なさるつもりでは!?」という期待が、この現象を生んだと言えそうです。


これに背中を押されてか、義昭本人も「何としても信長に一矢報い、京に帰るぞ!」とばかりに

越後の上杉謙信や甲斐の武田勝頼(信玄の子)、相模の北条氏政(氏康の子)といった、信長に対抗できそうな東日本の有力大名に

”長年対立してきた恨みを忘れ、『反信長』の姿勢で互いに協力するように”と呼びかける手紙を送ったといいます。

しかし、勝頼は”長篠の戦い”で信長に大敗を喫したばかり、上杉と北条もいわゆる”犬猿の仲”だったので、共同戦線は実現しませんでしたが

晩年の謙信が関東や信濃ではなく北陸地方に勢力を伸ばしたのは、信長の打倒と上洛を義昭に頼まれたから、とする説もあります。


そして、渋々ながらも(?)義昭の”スポンサー”となった毛利氏も、包囲網崩壊後も信長に抵抗して”籠城”を続ける石山本願寺

瀬戸内海から船団による兵糧・武器等の援助をするなど、結果的に『反信長』の立場をとることになります(※)。

(※)かつて元就が滅ぼした尼子家の残党(山中鹿介など)が、信長を頼って再起を狙っていたことも一つの要因といわれる

それでも、すでに一度窮地を乗り越えている信長はまたしても勝負強さを発揮し、この”第二次包囲網”もはねのけてしまいます。

義昭が希望を託した謙信は1578年に死去し、石山本願寺も1580年に信長と和睦(教団のトップ・顕如は寺を退去することになったが)。

毛利軍も尼子の残党を討ち果たしたまでは良かったものの、その後は織田家の重臣・羽柴(後の豊臣)秀吉の軍団に苦戦し、領地を削られていきます。

「やはり信長が生きている限り、京には戻れないのか・・・」落胆する義昭に、ついに運命の女神がほほ笑みます。


1582年6月2日、本能寺の変。


そう、かつて幕府と義昭に仕えた明智光秀が、幕府を(事実上)滅ぼした信長に謀反を起こしたのです。

信長は本能寺の炎と消え、各地を侵略していた織田軍は”謀反人・光秀”を討つべく撤退を始めました。

さらに、最近発見された当時の書物によると、光秀が「室町幕府の再興」という大義を掲げて支持者を集めようとしていたことも伺えます(注)。

あれだけ憎しみを抱いた”宿敵”は、もうこの世にいない。 義昭は、この知らせをどのような想いで聞いていたのでしょうか・・・?

(注)この情報は、記事を演出するために引用したものです。 
    ブログ主は、これを根拠に『義昭こそが”本能寺の変”の黒幕』と主張したいわけではありません。

・・・・・・。

・・・。


それから時は流れて、1588年1月。

『室町幕府15代将軍・足利義昭』は、実に15年ぶりに京に帰ってくることができました。

しかし、それは義昭があれだけ願った『室町幕府の再興』を意味するものではありませんでした。

そう。 あの”本能寺の変”の後、時代は室町幕府ではなく豊臣秀吉を選んだのです。


歴史に名高い”中国大返し”を経て光秀を討ったのち、織田家の重臣たちを押しのけて信長の勢力基盤を継承した秀吉は

”貴族階級の最高位”とされる「関白」の威光をもって(義昭や室町幕府の力を借りることなく)、毛利氏をはじめとする西日本の諸大名を次々と従えました。

また、生まれが武士ではない(とされる)秀吉は、自らが『武士のリーダー』たる将軍になることは考えず(異説もある)

室町幕府と対立した三好長慶や信長のように『幕府や将軍の存在が、自分の権力の邪魔になる』こともありませんでした。

これは想像ですが、義昭と秀吉は損得勘定や利害関係ではなく、互いに「公人」としての付き合いができていたのではないでしょうか。

秀吉と付き合う間に、義昭は「もはや自分が、将軍の地位に固執する意味はない」と悟ったのかもしれません。


義昭は京に戻った直後、朝廷に「将軍職を返上します」と申し出て、ここに室町幕府はその役目を終えたのであります。

その15年後、徳川家康が江戸に幕府を開く(※)までの間、将軍の座は”空位”となりました。

(※)余談だが、江戸幕府初代将軍・家康の在位期間はわずか2年ほど。

   徳川家が将軍職を世襲する流れを盤石にするため、すぐに跡取り息子の秀忠に譲った。


将軍職の重圧と権力のしがらみから解放された義昭は、再び出家してお坊さんとなりましたが

同時に山城1万石の大名として秀吉に取り立てられ、穏やかな晩年を過ごし、1597年に亡くなりました。 享年61。

実は、歴代の室町幕府将軍の中で、最も長生きだったのがこの義昭でした。 

なお、人質として信長に預けられた義昭の息子とその子孫は、最終的に皆お坊さんになったため

武士としての”足利将軍家”は、実質的には義昭の代で断絶したといえるのであります。 諸行無常。


・・・というところで、およそ100年にわたる”室町幕府の栄枯盛衰物語”の結びとさせていただきます。

長らくのご拝読、本当にありがとうございました。

本編はこれで終わりですが、3月はもう1回土曜日があるので、あとがき的な記事を書いておこうと思います。

よろしければ、そちらもどうぞお付き合いください。


では、また。

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