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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】中国地方東部の状況~戦国時代の中国地方14~
どうも。

さて、今日は戦国時代の連載記事です。

本編は厳島合戦まで進んで

一区切りついた感がありますので、

今回は少し目線を変えて、これまで触れてこなかった

中国地方東部の情勢について書いてみようと思います。

続きは追記になります。
‐‐‐‐‐‐



中国地方の旧国名

<山陰・日本海側(因幡・伯耆・但馬)>

まず、中国地方東部で日本海側にあった国は、

因幡(いなば・現在の鳥取県東部)

伯耆(ほうき・現在の鳥取県西部)

但馬(たじま・現在の兵庫県北部)


になります。
(現在の兵庫県は近畿地方ですが、説明の都合上、
 この連載では中国地方に含めさせてください)

このうち、伯耆には戦国時代の早い時期から

出雲の尼子氏が進出し、勢力を築いていました。

残る因幡と但馬を治めていたのが、山名(やまな)氏です。


歴史上の人物で「山名」という姓の著名人がすぐ思い浮かんだ方は、

なかなかの歴史通なのかもしれません。(私が言うのもなんですが…)

山名氏は、戦国時代の幕開けといわれる「応仁・文明の乱」において

一方の軍の総大将を務めた『山名宗全(やまなそうぜん)』の家系です。


「応仁・文明の乱」は室町幕府将軍の後継者争いに端を発し、

その周囲の有力武士や全国の守護大名・国人勢力などを巻き込みながら

最終的には全国各地で10年以上にわたって続いた争乱です。

この頃の山名氏は、本拠地の因幡・但馬に加えて

周辺国の守護職を兼ねるなど、西日本有数の勢力を誇っていました。

「応仁・文明の乱」が始まると、その当主である宗全を頼る武士や国人も多く、

彼は「西軍」の総大将として細川勝元(ほそかわかつもと)らの率いる「東軍」と対峙しました。


余談ですが、宗全が「西軍」を率いて京都の街に本陣を置いたことが由来で、

現在の「西陣(にしじん)」という呼び名が生まれた、とも言われています。


しかし、宗全は乱の終息を見ることなく他界し、

その後は山名氏の勢力圏内でも家臣の離反や国人勢力の独立が頻発。

本格的な戦国時代が到来する頃には、先に述べた因幡と但馬の支配を

確保するのが精いっぱいで、その山名一族の中でも本家と分家が争い、

国内でもそれぞれに味方する国人同士のいざこざが絶えないという有様でした。

つまり、山名氏には中国地方の覇権争いに介入するだけの力は無かったのです。


<山陽・瀬戸内海側(美作・備前・備中・備後・播磨)>

一方、山陽・瀬戸内海側に位置した国は

美作(みまさか・現在の岡山県北部)

備前(びぜん・現在の岡山県東部)

備中(びっちゅう・現在の岡山県西部)

備後(びんご・現在の広島県東部)

播磨(はりま・現在の兵庫県南部)


になります。


このうち、美作・備中・備後では国人や豪族などの小勢力が乱立し、

尼子氏や大内氏がたびたび介入を行うなど、

戦国初期から中期を通じて混迷した状況にありました。

後に、安芸を制圧した毛利氏が勢力をのばします。


残る播磨と備前では、山名氏と同じく室町期の守護大名だった

赤松(あかまつ)氏による支配が続いていましたが、

こちらも応仁・文明の乱以降は国内が混乱し、赤松氏の支配力が衰退。

その配下であった国人らの勢力が強まり、群雄割拠の状態となっていきます。

播磨では、三木城の別所(べっしょ)氏や御着(ごちゃく)城の小寺(こでら)氏など。
※小寺氏の配下には、後の官兵衛(孝高)を出す黒田氏もいました

備前では、守護代を務めた天神山城の浦上(うらがみ)氏などが力をつけます。


しかし、この地域で有名な武将といえば、この人の名前を出さない訳にいきません。

浦上氏の配下にいた、宇喜多直家(うきたなおいえ)です。

後にこの連載の中でもお話しすることになると思いますが、

戦国中期から後期の中国地方において、勢力争いの鍵を握る重要人物ですので、

その名前を頭の片隅にでも置いておいてください。


今後は、これらの地域の模様も地図上に反映させたいと思います。

次回は再び毛利氏を中心に話を進める予定です。




コメント
▼この記事へのコメント<(あれば表示)
知らないことが多すぎて難しいところも多々ありますが、なんか面白いです。郷土史の勉強にもなります。ところで、備前、備中、備後に共通の「備」という文字が使われていますが、このもともと「備」と言う国が3つに分けられたと考えていいのでしょうか。
2015/07/23(木) 22:07:59 | URL | by丹後のきんちゃん (#-) [ 編集]
Re: タイトルなし
丹後のきんちゃん さん

まこな。です。
いつもありがとうございます!

> 知らないことが多すぎて難しいところも多々ありますが、なんか面白いです。

「応仁・文明の乱」については、確かに関係する人物が多かったり
詳細な資料が少なかったりで説明するのが難しいところなのですが、
また機会があればもう少し詳しく、分かりやすく書いてみたいと思います。

> 備前、備中、備後に共通の「備」という文字が使われていますが、
 もともと「備」と言う国が3つに分けられたと考えていいのでしょうか。

戦国時代よりも前の時代には、今の岡山県あたりは「吉備(きび)の国」と
呼ばれていたようで、その「備」から来ているようです。
お察しの通り、その「吉備」が分かれてそれぞれの国名になりました。

ちなみに、国名の「前」や「後」の字は当時の京から見て近いか遠いかで
判別することができます。(越前・越後なども同じパターンです)

次の記事も楽しみにお待ちください。それでは。
2015/07/24(金) 19:16:20 | URL | byまこな。 (#-) [ 編集]

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