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そのブログ、雑食系につき ~新・気づかれないうちに~
1000回を節目に、プチリニューアル。 日記とか雑談がメイン、たまに戦国時代・時事ネタ・人生観など。
【戦国時代】毛利と尼子、決着の時 ~戦国時代の中国地方16~
こんばんは。

今日は戦国時代の連載記事です。
※過去のシリーズ記事はこちらから。

では早速、始めるとしましょう。
‐‐‐‐‐‐




周防の大内氏が滅んだことで、

中国地方の覇権争いは毛利氏と尼子氏に絞られました。

さらに、毛利氏が石見の大森銀山を押さえたことで、

資金面でも戦略面でも毛利氏が優位に立ちます。


一方、劣勢に立たされる尼子氏に追い打ちをかけるかのように、

当主の尼子晴久が1560年に46歳で急死。

息子の義久(よしひさ)が後を継ぎますが、これにまたしても

出雲の国人衆がざわめき立ち、毛利に寝返ろうとする者もあらわれます。


しかし、過去に出雲攻めで痛い目を見ている(第10回参照)元就は、

力攻めは愚策と考え、じっくりと攻略を進める構えでいました。


まず、尼子を見限ろうとする出雲の国人衆をしっかりと味方につけ、

これらの助力を得て尼子寄りの支城を攻略していきます。

しかし、尼子軍本隊との戦闘により、後退する場面もありました。

中でも、山中幸盛(やまなかゆきもり、通称『鹿介』)の奮戦ぶりは毛利軍を苦しめていました。


山中幸盛について、次のような逸話があります。

幸盛を討ち取りたい毛利軍のある武将が、こんな事を言い出しました。

「鹿より強いのは狼(おおかみ)。

 俺はこの戦で、『狼の介』と名乗って『鹿介』を討ち取ってみせる!」


そして出陣した彼は、幸盛に一騎打ちを挑み、そして…


返り討ちにされてしまいましたとさ。(あわれ…)


この話はあくまで伝承ですが、現地には彼の墓も残っているそうです。

殺伐とした戦国時代に、本当にこんなやり取りがあったかどうかは謎ですが、

それだけ鹿介の名前と武勇は知れ渡っていたのでしょうね。



さて、毛利と尼子の戦いが激化していた1563年、毛利家に一大事が起こります。

元就の長男で、年老いた元就に代わって毛利家当主の座についていた

毛利隆元(たかもと)が、急死してしまったのです。41歳でした。

死因は病死とされていますが、尼子方の武将による毒殺という説もあります。


すでに60歳を越え、自分亡き後の世代への橋渡しを進めていた元就にとって、

隆元の死は大変に衝撃的で、おおいに取り乱したといいます。

毛利家の将来は、隆元の子で当時11歳の輝元(てるもと)に託されることになります。


「まだ幼い輝元のためにも、自分が生きているうちに尼子との決着をつけておかねば」


気を持ち直した元就は、そう誓ったのでした。


この後、元就は尼子攻めのペースを上げていきます。

次男の吉川元春(きっかわもとはる)とともに出雲の城を次々と陥落させ、

義久らの籠る月山富田城を包囲します。

前回は国人衆の寝返りをきっかけに包囲を切り崩した尼子軍でしたが、

国人衆の取り込みにも万全を期した今回の元就に対しては、なす術がありません。

1566年、ついに尼子義久は降伏し、山陰の雄・尼子氏は元就の軍門に下りました。

この瞬間、毛利氏は中国地方の覇者となったのです。

毛利元就は70歳を迎えようとしていました。


しかし、中国地方の戦国時代はこれで終わりではありません。

九州北部を支配する大友氏が毛利氏の領土を狙っていましたし、

後に「天下布武」を唱える織田信長も勢力を拡大していました。

そして、落城した月山富田城から落ち延びる一人の若武者の影…。


次回、【戦国時代の中国地方】第一部の最終回です。





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